大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

静岡地方裁判所 平成2年(ワ)263号 判決 1996年3月29日

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

被告は、原告佐々木美千代に対し金五四二〇万七〇〇〇円、原告田中利一及び同田中フミ子に対しそれぞれ金一六七六万円宛て、並びに右各金員に対する昭和六一年六月一八日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、潜水艇支援調査船「へりおす」が沈没した海難事故により死亡した同船の乗組員の遺族である原告らが、右事故が同船の建造上の欠陥により生じたものであるとして、同船を建造した被告に対し、民法七〇九条に基づき、損害賠償を請求した事件である。(以下、特殊な用語については別紙「用語説明」のとおり。)

一  争いのない事実等

1 当事者

(一) 原告佐々木美千代は、後記本件遭難によって死亡した佐々木豊蔵(昭和二四年九月一八日生)の妻であり、同原告のほか佐々木豊蔵の相続人としては、その実母がいたが、遺産分割協議によって同原告が佐々木豊蔵の権利義務を全部相続承継した。原告田中利一及び同田中フミ子は、後記本件遭難によって死亡した田中利治(昭和三四年六月二七日生)の両親であり、原告らのほかに田中利治の相続人はいないから、同人の権利義務は同原告らが各二分の一の割合で相続承継した。

(佐々木豊蔵及び田中利治の相続関係につき《証拠略》。その余の事実は争いがない。)

(二) 被告は、造船業を営む株式会社である。

(争いがない。)

2 潜水艇支援調査船へりおすの建造

(一) 被告は、昭和六〇年九月三〇日、駿河精機株式会社(以下「駿河精機」という。)との間で、日本沿岸浅海域の海洋資源調査等を目的とする潜水艇シーホース(以下「シーホース」という。)を支援するための一層甲板型船である潜水艦支援調査船「へりおす」(以下「へりおす」という。)を、船主(駿河精機)支給の指示図に基づき建造する契約を締結した。駿河精機は、これに先立つ同年七月、株式会社東京設計研究所(以下「東京設計研究所」という。)に対し、へりおすの基本設計を船舶復原性規則(昭和三一年運輸省令第七六号、但し、昭和六三年運輸省令第二号による改正前のもの。以下同じ。)を準用して設計するよう依頼し、同年一〇月、被告に対して、東京設計研究所作成の建造仕様書及び関連図面を交付した。なお、へりおすは、船舶復原性規則一条各号所定の船舶に該当せず、本来、船舶復原規則の適用がない船舶である。

(被告が駿河精機との間で船主支給の指示図に基づきへりおすを建造する契約を締結したことは争いがない。その余の事実につき、《証拠略》)

(二) 被告は、昭和六〇年一一月頃からへりおすの建造に着手したが、その建造中、駿河精機との打合せのうえで、船首楼を四九〇ミリメートル、操舵室を九八〇ミリメートルそれぞれ船尾方に延長し、アルミニウム合金製として指定されていたコンパス甲板上のマスト、煙突等をいずれも鋼製に替え、機関室船底に入れる固定バラスト三・六五トンを約四・二トンに増やし、トリム調整及び船体傾斜修正のために船尾操舵機室に固定バラスト約二・六トンを入れるなどの仕様変更をした。

へりおすは、昭和六一年二月一九日に進水し、同年三月一一日に海上公試運転及び復原性試験を実施し、同月一五日に財団法人日本海事協会(NK)の船級を取得したうえ、船舶検査証書、船級証書等とともに駿河精機に引き渡された(へりおすの総トン数等要目については別紙「へりおすの要目等」記載のとおり。)。

(被告がへりおすの建造に着手し、その建造中仕様変更を行ったこと、へりおすが昭和六一年二月一九日に進水し、同年三月五日に駿河精機に引き渡されたことは争いがない。その余の事実につき、《証拠略》)

(三) その後、株式会社日本浅海研究所(以下「日本浅海」という。)が駿河精機からへりおすを傭船し、日本浅海所長の小長谷輝夫(以下「小長谷」という。)がその運航管理者となった。日本浅海は、へりおすを傭船した後、駿河精機に依頼して、シーホースの揚収設備を改造し、船尾錨を八二キログラムから二四五キログラムのものに取り替える変更を行った。

(日本浅海が駿河精機からへりおすを傭船し、日本浅海所長の小長谷がその運行管理者となったことは争いがない。その余の事実につき《証拠略》)

3 へりおすの船体構造及び運行準備

(一) へりおすは、船首部に操舵室を備えた鋼製の長船首楼型一層甲板船で船尾が後部垂線より後方に約二メートル張り出し、船首楼はその特殊な用途から大きく、船首方からの風波に対する凌波性は高いが、その船尾甲板の乾舷は約七〇センチメートルである。その他、へりおすの船内各配置については、別紙「へりおす一般配置図」記載のとおりである。

(二) 日本浅海は、昭和六一年三月二五日から同年六月一二日までの間、駿河湾周辺においてへりおすのシーホース発着、潜行、揚収等の各種訓練を実施し、その合間に清水港において船体、機関及び各機器の整備を行った。

他方、運航管理者の小長谷は、シーホースによる北海道天売島、小平沖及び松前における漁礁調査、並びに留萌、小樽及び函館におけるへりおすの一般公開等を行う計画を立て、その運行日程を決定したうえ、へりおすの運航区域が沿海区域であったところから、関係法令に従い離岸距離二〇海里以内を航行することとして、安全運航システムマニュアルとともに運航日程表をへりおすの松本直美船長に交付した。

なお、小長谷の決定した運行日程は、清水、羽幌間の航程を九〇〇海里、航海速力を一〇ノットとすることを前提とした次のようなものであった。

(運航日程)

昭和六一年六月一六日午前八時四五分清水港発、同月二一日午後北海道羽幌港着、同月二一日天売島、蛸産卵礁調査、同月二二日羽幌港発、留萌港着、同月二三日小平沖で多段式漁礁調査、同月二四日留萌港にて一般公開、同月二五日留萌港発、午後一時小樽港着、同月二六日小樽港にて一般公開、同月二七日札幌でレセプション(シーホースを小樽港から札幌会場まで輸送)、同月二八日シーホースを札幌会場から小樽港まで輸送、同月二九日小樽港発、松前港着、同月三〇日松前沖で多段式漁礁調査、同年七月一日松前港発、函館港着、同月二日函館港にて一般公開、同月三日函館港発

4 沈没事故の発生

(一)(1) へりおすは、昭和六一年六月一六日午前八時四五分、松本船長、佐々木豊蔵機関長ら四名の船舶職員と、田中利治ら五名の調査員が乗り組んで(以下、船舶職員及び調査員を併せて「乗組員」という。)、清水港から羽幌港に向けて出航した。松本船長は、機関を約一〇ノットの全速力前進として駿河湾を南下したのち、伊豆半島南方沖、伊豆大島北方沖を経て房総半島東岸沿いに北上し、同月一七日午前三時四〇分頃犬吠崎灯台から一三三度(真方位。以下方位につき同じ。)、九・五海里付近に達したとき、針路をほぼ一六度に定めて以後自動操舵によって航行し、同日午後〇時頃、北緯三六度五三分東経一四一度二四分(塩屋埼灯台から約一〇八度、二一海里)付近を速力九ノットで航過し、午後〇時五分頃、船舶電話で日本浅海と定時連絡を取って、午後〇時の船位、針路及び速力のほか、気圧一〇〇九ミリバール、天候雨、風向南、風力四との気象状況、また、船酔いの調査員も元気になり食事が摂れるようになった旨の報告を行った。

(2) その頃、へりおすは、折からの南寄りの風及び波浪を右舷船尾ほぼ一点半に受け、左に三度程圧流されながら針路一六度(実航針路一三度)、速力約九・四ノットで航行し、福島県東方海上で南寄りの波浪が次第に高まり天候悪化の傾向がある中で、同日午後〇時頃からは航行区域(離岸距離二〇海里以内)を越えて次第に陸岸から遠ざかりながら進行していた。そして、松本船長は、同日午後二時三二分頃、北緯三七度一六・三分東経一四一度三〇・八分付近において、日星タンカー株式会社所属油送船第一日星丸(総トン数一七八三トン)と、また、同日午後二時五八分頃、北緯三七度二〇・三分東経一四一度三二分(塩屋崎灯台から五二度、三三・七海里)付近において、風力が五になっていた際に、栗林商船株式会社所属貨物船神正丸(総トン数三五一一トン)と、それぞれ右舷を対して航過した後、同日午後五時一〇分頃、船舶電話で運行管理者の小長谷に対し、「現在風力五、これ以上天候が悪くなれば最寄りの港へ避難するつもりである」との臨時連絡を行い、小長谷から前線が近付いているのでなるべく避難するようにとの助言を受けた。

(3) その後、へりおすは、同日午後五時三八分頃、北緯三七度四四・七分東経一四一度三八・五分(鵜ノ尾埼灯台から九八度、三一・五海里)付近海域で沈没した(以下「本件遭難」という。)。なお、右沈没地点は、へりおすの航行区域を越えた地点である。

(4) 本件遭難地点は、陸岸からの距離が遠いうえ、避難港も少なく、また、黒潮分流と親潮との会合点で、かつ水深一四〇メートルの大陸棚の縁が急崖となって落ち込む位置にあり、深海波が浅海波に変化するところであるため、岨度の高い不規則な三角波がよく発生する海域であって、従前から海難事故が多く発生し、地元では「魔の水域」と称されている場所である。

(松本船長、佐々木豊蔵機関長、田中利治調査員ら計九名の乗組員がへりおすに乗り組んで、昭和六一年六月一六日午前八時四五分に清水港から羽幌港に向けて出航したこと、へりおすが右の日時場所において第一日星丸及び神正丸と航過し、同日午後五時三八分頃、北緯三七度四四・七分東経一四一度三八・五分(鵜ノ尾埼灯台から九八度、三一・五海里)付近海域で沈没したことは争いがない。その余の事実につき、《証拠略》)

(二) 昭和六一年七月一日、サルベージ会社の潜水艇の調査により、水深約二三〇メートルの海底に沈んだへりおすの船体が確認され、当初、ワイヤーネットにより海底から水深約五五メートルの位置まで引き揚げ、吊ったまま海中を移動させようとしたが、移動中にずり落ち、へりおすの船体は再び約一三〇メートルの海底に沈んだ。その後、へりおすの船体は、再度引き揚げられて、同じく海中を移動させ、水深約三五メートルの浅海底に着底させて台付けワイヤーを確保したのち、昭和六三年七月一一日に海上への引揚げが成功し、ポンプで排水後、水面上に吊り上げて相馬港まで移動させられ、本件遭難の事故原因の調査等を経たのち、船体は解撤された。

(三) 本件遭難により乗組員九名全員が死亡したが、そのうち松本直美船長及び樋口勝年一等航海士の遺体は漂流しているところを発見され、田中利治調査員の遺体は船外の海底かは漁船の底びき網により収容された。他方、引き揚げられたへりおすの船内からは、藤井正文機関士の遺体がブリッジ内で、土屋正弘調査員の遺体が事務室内で、小林弘明調査員の遺体が食堂で、片岡淑人調査員の遺体が船室ベッドでそれぞれ発見されたが、佐々木豊蔵機関長及び鈴木秀彦調査員の遺体は、発見されなかった。

5 当時の気象状況

昭和六一年六月一六日午前九時に九州西方の北緯三二度東経一二四度付近にあった九九六ミリバールの低気圧は、東方に延びる温暖前線と西方に延びる寒冷前線を伴って北東方に進行し、同日午後九時には九九二ミリバールに発達して、朝鮮半島南部の北緯三五度東経一二八度付近にあり、同月一七日午前九時には九九〇ミリバールとなって、朝鮮半島東方海上の北緯四〇度東経一三二度付近に達し、その中心から南東方に延びる前線が能登半島西方を通り、本州を横切って九州南西海上に達しており、かかる状況の下で、同日午前六時、仙台管区気象台は、「発達した低気圧が北緯三八度東経一三〇度付近を北東進中で、三陸沖では南寄りの風が次第に強まり、最大風速二〇メートルに達し、ところによっては濃霧となる見込みなので船舶は注意を要する」との海上強風警報及び海上濃霧警報を発表し、これらの警報は同日午後一一時五〇分以降に至るまで継続していた。

6 海難審判の結果

(一) 本件遭難につき海難審判の申立てを受けた仙台地方海難審判庁は、平成二年三月二〇日、主文を「本件遭難は、復原性の十分でない船が建造され、斜め後方からのやや強い風波を受けて航走したこととに因って発生したものである。指定海難関係人齋藤友紀(被告設計課長)に対し勧告する。」とする裁決をした。

(二) 右海難審判事件につき第二審の請求を受けた高等海難審判庁は、平成四年六月三日、主文を「本件遭難は、天候悪化の傾向があるときに陸岸に接航する針路をとらなかったことと、開口部の閉鎖が十分でなかったことに因って発生したものである。」とする裁決をした。

(争いがない。)

二  争点

原告らと被告との間に、

1 本件遭難時のへりおすの船首方向を含む遭難の具体的状況について(以下「争点二」という。)

2 争点一についての原、被告双方の主張に対応して、本件遭難の原因及びこれに対する被告の責任の有無について(以下「争点二」という。)

3 佐々木豊蔵及び原告佐々木美千代に生じた損害の額並びに田中利治及び原告田中利一、同田中フミ子に生じた損害の額について(以下「争点三」という。)

それぞれ争いがある。

三  争点に関する原告らの主張の要旨

1 争点について

(一) 本件遭難当時、現場付近の天候は雨で、風向南、風力は六(風力階級によるもので、秒速は一〇・八ないし一三・九メートル。大波が現れ、白く泡立つ波頭がいたるところにでき、しぶきを生ずることが多い。)であり、また、風浪の方向は南南東から南南西、その波高は一ないし二メートル前後、その周期は七ないし八秒、うねりの方向は南東から南、その波高は二メートル前後、その周期は七ないし八秒、視程は三海里程という海象であった。なお、この場合、風浪とうねりの合成波高は、各波高を二乗して加えた値の平方根として求められ、約二・八メートルとなる。

この海象は、時化模様とはいえても、航行中の船舶が嵐のため沈没するなどということは起こり得ないものであり、現に付近海域を第一日星丸及び神正丸が何ら問題なく航行していた。

(二) へりおすの松本船長は、昭和六一年六月一七日、右一の4の(一)の(2)の小長谷に対する臨時連絡をした後、同日午後五時三二分ないし三三分頃、石巻港に避難すべく、それまでの針路一六度(実航針路一三度)から針路三四〇度に転針した。これにより、へりおすは南からの風及び風浪を左舷船尾約一四度方向から受けることになり、追波航行をしていたが、その状態で、同日午後三八分頃、高波により上甲板への波のすくい上げを受けた際に、急速に復原力を喪失して右舷に横転し、本件遭難地点において沈没したものである。

(三)(1) これに対し、高等海難審判庁の裁決は、へりおすのジャイロコンパス(レピータコンパス)が二一八度で停止していたことを理由に、へりおすが三四〇度に転針して石巻港に向かった直後、さらに左に一二二度回頭して船首方向を石巻港とは逆の塩屋埼灯台方向に向けたものと認定した。

しかし、ジャイロコンパスは高速回転のジャイロ(独楽)を水平に吊し、地球重力を利用してその軸が真北を指すようにしたもので、水平を保つためジンバル装置(水平保持器)に支えられているが、同装置で許容される角度を超えて船体が傾斜するとジャイロの水平が保たれなくなり、指北作用を失って予測できない方向に向かって運動する。へりおすは、針路三四〇度で航行中、沈没直前に右舷に大傾斜し、そのためジンバル装置の許容範囲を超えてジャイロが指北性を失ったのであるから、その後のジャイロコンパスの指度は何の意味もなく、二一八度の指度は指北性を失ったジャイロコンパスが偶々指したものに過ぎない。

なお、高等海難審判庁の裁決は、へりおすが三四〇度に転針したため、左舷後方から波浪が打ち込み始めたとするのであるが、三四〇度に転針したことにより波浪が打ち込み始めたのであれば、これをなくするためには、三六度右転して元の針路である一六度に一旦戻せば足りることである。この場合に、さらに一二二度も左転して針路を二一八度とすることは考えられない。なぜなら、三四〇度から二一八度に左転する途中で船首が二七〇度(西)を向いた際、南からの波浪による横波を受けることになって、ますます危険な方向へ回頭することになるからである。

(2) さらに、高等海難審判庁の裁決は、へりおすが開口部からの浸水により転覆したものであると認定した。

しかし、引き揚げられたへりおすの検分結果によると、同船の開口部の開放箇所は、中央倉庫左舷側壁の出入口、左舷側浴室舷窓一個、左舷側機関室天窓一個及び船首ボースンストアハッチ(ロープハッチ)の計四箇所であったが、その船体における位置並びに海面からの高さと、右(一)の本件遭難当時の波高及びへりおすが追波航行中であったこととを併せ考えると、これらの開口部から転覆するほど多量の海水が船内に侵入したものとは考え難い。のみならず、諸状況に照らして、中央倉庫左舷側壁出入口の水密扉は本件遭難時に船内から乗組員が脱出しようとして開けたものと考えられ、また、機関室天窓は航行中通常は開けているものであるが、仮に海水が打ち込むような状況になれば、これを閉じるのも当然であり、かつ開閉は容易にできることであるから、天窓が開けられたままであったということは、本件遭難当時、天窓からの海水の打ち込みがなかったことを示すものというべきである。

2 争点二について

(一) 本件遭難の原因は、へりおすが、その建造中の仕様変更の集積によって完成時の重心位置に影響を受け、基本設計時に想定されていたよりも復原性の不十分な船として建造されたうえ、その安全性が確かめられないまま初航海に赴いたために、本件遭難地点において、左斜め後方からのやや強い風波を受け、追波中の航行と上甲板への波のすくい上げにより急速に復原力を喪失したことにある。

(二)(1) 船舶が航行中、風波浪の影響により傾斜することは当然であるが、この傾斜は復原力によって回復するよう設計、建造されているものである。したがって、復原性が十分であれば、風波浪により傾斜した船舶は元の位置に戻る力(復原力)が作用し、揺れはするけれども安全に航行できる。しかし、復原性が十分でなければ、風波浪等の影響で傾斜が生じた場合に復原しなくなり、沈没に至ることとなる。

(2) 復原性に関する基準は、各国ほぼ同様のものが制定されており、我国においては船舶復原性規則がこれに当たる。他方、国際的には国際海事機関(IMO)の基準として「長さ一〇〇メートル未満の旅客船及び貨物船の非損傷時復原性に関する勧告(昭和四三年)」(以下「IMO勧告」という。)及び「一九七七年の漁船の安全のためのトレモリノス国際条約(昭和五二年)」(以下「トレモリノス条約」という。)があるが、諸般の事情により我国ではIMO勧告、トレモリノス条約とも法制化されていない。これらとは別に日本造船協会誌三二八号(昭和三一年)に「安全示数から見た船の重心位置及び乾舷」と題する安全性能の判定法が提案されている(以下「協会誌提案」という。)。

(3) 復原性は、船体重心高さ及び船型の両面から影響を受け、その判定については、重心位置、GM値、復原梃子、C係数又は乾舷などの各項目を総合的に検討することが必要である。

しかるところ、へりおすは、船舶復原性規則上、一よりも大きい値となることが要求されているものと解されるC係数(船舶復原性規則のC係数基準は、不規則波中で正横から定常風を受けながら横揺れしている船が、突風を受けても転覆しない条件を定めたものである。)が〇・六三であった。また、IMO勧告及びトレモリノス条約第二八規則(復原性基準)は、復原梃子の大きさについて、横傾斜角三〇度またはそれ以上の角度で二〇〇ミリ以上と定めているが、へりおすの場合、最大復原力の生ずる傾斜角は二七・五度で(なお、最大復原梃子は傾斜角三〇度以上で生ずることが望ましく、二五度未満であってはならないが、へりおすは、右のとおり二七・五度であって、三〇度に至っていなかった。)、最大復原梃子は一三〇ミリであった。したがって、へりおすはC係数及び復原梃子の大きさにおいて劣性が顕著であり、復原性が不十分であったことが明らかである。そのほか、協会誌提案による判定法を適用した場合、へりおすは重心位置・乾舷等による安全性能に安全限界線を超える点があり、同判定法によっても不合格であると判定されることになる。

(三) 被告は、へりおすを建造するに当たり、基本設計ではアルミニウム合金とされていた煙突、マストの材質を鋼製にするなど、東京設計研究所の基本設計に対し、重心位置に影響を与える多くの仕様変更をした。これらの仕様変更が重心位置に与える影響は、一つ一つでは大きくないものの、へりおすが軽荷重量約一〇〇トンの小型船舶であることからすれば、その集積を軽視することはできない。しかるに、被告は、仕様変更による重心位置の移動について検討せず、また、完成前の傾斜試験において重心を求める計算をするに際しては、東京設計研究所の建造仕様書にボンジャーン曲線図が摘示され、これを使用して精密に計算することとされており、また、自らもボンジャーン曲線または電算プログラムを使用しなければ正確な重心の位置が計算できないことを知っていたのに、従来から一〇〇トン未満でトリムが一〇〇分の二L以内の船舶については簡易な計算方法を用いていたので、へりおすが特殊な用途の船で類似船の建造実績が少なかったにもかかわらず、その簡易な計算方法に従って計算したために、同船が設計時に与えられた重心の位置より約一五センチメートル余り低く計算し、最大復原梃子及びC係数等において、本来有すべき値をかなり下回る復原性の劣悪な船舶を建造したものである。

(四) 以上のとおり、へりおすは、被告の建造中の仕様変更により、基本設計時に想定されていたよりも復原性の不十分な船として建造されたため、建造後の初航海の途次、追波航行中に高波を受けて復原力を喪失し、これが原因で転覆沈没したのであるから、本件遭難につき被告が責任を追うべきことは明らかである。

3 争点三について

(一) 原告佐々木美千代

(1) 佐々木豊蔵の逸失利益 五六六〇万七〇〇〇円

佐々木豊蔵は、本件遭難当時三六歳の男子であって、駿河精機から年四七二万七五六三円の給与収入を得ており、就労可能年数は六七歳までの三一年であった。

そこで、生活費控除を三割五分とし、新ホフマン方式により年五分の割合による中間利息を控除して、同人の逸失利益を算出すると五六六〇万七〇〇〇円となる(千円未満切り捨て)。

(2) 原告佐々木美千代の慰謝料 二一〇〇万円

(3) 葬儀費等 二〇〇万円

原告佐々木美千代は、本件遭難現場に何度も足を運ぶなどし、これら諸費用と葬儀費用として二〇〇万円を支出した。

(4) 損害の填補額 三〇二〇万円

原告佐々木美千代が駿河精機及び日本浅海より佐々木豊蔵の死亡による補償金として受領した金額である。

(5) 弁護士費用 四九〇万円

(6) 差引請求額 五四二〇万七〇〇〇円

(二) 原告田中利一及び同田中フミ子

(1) 田中利治の逸失利益 三八三二万円(原告ら各一九一六万円宛て)

田中利治は、本件遭難当時二六歳の大学卒業の男子であり、就労可能年数は六七歳までの四一年であった。

そこで、昭和六一年度賃金センサス第一巻第一表による産業計・企業規模計の大学卒二五歳ないし二九歳男子の平均年収額三四八万八四〇〇円を基礎として、生活費控除を五割とし、新ホフマン方式により年五分の割合による中間利息を控除して、同人の逸失利益を算出すると三八三二万円となる(千円未満切り捨て)。原告らはそれぞれその二分の一に当たる一九一六万円を相続承継した。

(2) 慰謝料 原告ら各八〇〇万円宛て(合計一六〇〇万円)

(3) 葬儀費等 原告ら各一〇〇万円宛て(合計二〇〇万円)

原告田中利一、同田中フミ子は、本件遭難現場付近海上で利治の遺体が収容されたこともあって、本件遭難現場に何度も足を運ぶなどし、これら諸費用と葬儀費用として各一〇〇万円宛てを支出した。

(4) 損害の填補額 原告ら各一二九〇万円宛て(合計二五八〇万円)

原告田中利一、同田中フミ子が駿河精機及び日本浅海より利治の死亡による補償金として受領した額である。

(5) 弁護士費用 原告ら各一五〇万円宛て(合計三〇〇万円)

(6) 差引請求額 原告ら各一六七六万円宛て(合計三三五二万円)

四  争点に関する被告の主張の要旨

1 争点一について

(一) 本件遭難当時、現場付近海域には風力八ないし九の場合に発せられる海上強風警報と濃霧について警告を必要とする場合に発せられる海上濃霧警報が出されており、かなりの時化模様であった。諸般の事情を総合すると、本件遭難時の天候は雨、風力七ないし八(秒速一三・九ないし二〇・八メートル)の南東風が吹き、付近海面には同方向から風浪とうねりの合成波高五メートル余の波が到来していたもので、右気象、海象の状況はいつ海難事故が発生してもおかしくないものであった。加えて、本件遭難現場付近は、三角波による波の方向性が不規則な危険海域である。

なお、原告は、本件遭難海域付近を第一日星丸と神正丸とが航行していた旨主張するが、へりおすが総トン数五〇トンの小型船舶で、第一日星丸及び神正丸とは大きさが全く異なるものである。また、へりおすが第一日星丸及び神正丸と遭遇した時間及び場所は、本件遭難の時間及び場所と明らかに異なっており、本件遭難時に、付近海域を他船が何ら問題なく航行していたかのような原告の主張は誤りである。

(二) かかる荒天下において、松本船長は、航行区域(離岸距離二〇海里以内)を超え、かつ波浪の打ち込みやすい船尾機関室ファンルーム(機関室吸排気塔)の頂部及び側部の吸排気口と、左舷側機関室天窓一個を開放したままへりおすを航行させていた。

そして、松本船長は、荒天に対しちちゅうによって対処しようとして(ちちゅうの意義等については後に認定するとおりである。)、自動操舵を舵輪操舵に切り替え、機を見て風上に回頭しようとしたものの、三角波による波の方向性が不規則であったうえ、船体が卓越した波浪に対し小さ過ぎ、かつ操船者が小型船特有の早い操舵スピードに不慣れであったことなどから、適切な回頭動作を取り得ず、ラーチ現象により右舷側に大傾斜し、開放されていた機関室吸排気口(側部吸排気口は甲板上約六〇センチメートルの位置にある。)から波浪の打ち込みが生じた。

この浸水により、機関室吸排気口の下にある機関室内の主機警報盤がまず短絡し、主機は遠隔操縦が不可能となった。波浪は、続いて開いていた機関室天窓(甲板上約一・二メートル)よりも打ち込み、その真下にあった主配電盤が次いで短絡し、電源は二四ボルト系を残して切断された。一〇〇ボルト系電源が切れたために、舵輪は自動的に応急手動油圧に切り替わったが重くなり、右舷側への大傾斜と相俟って操船は困難を極め、船内はパニック状態になった。そして、乗組員が脱出のため開けた左舷船員室扉より機関室内への直接の浸水が続いて船体はさらに傾斜し、次いで操舵室への波浪打ち込みにより室内分電盤ブレーカースイッチ二四ボルト系も短絡して、船内の全電源が断たれ、そのまま浸水により沈没したものである。

(三) 原告は、へりおすが針路三四〇度の状態で転覆沈没したものと主張する。

へりおすの操舵スタンドの自動操舵用針路設定器の指針は三四〇度を指していたが、右針路設定器は、針路設定ノブが飛んでなくなり、ガラスカバーが破壊されており、かような外力が加わっている以上、針路設定器の構造からして針路設定器の指針も動いてしまっていることは明らかである。また、へりおすが実航針路一三度で北上中のところ、本件遭難の直前の午後五時三三分頃に自動操舵のまま針路を三四〇度に転針して航行したとすることは、右(一)のような荒天下の操船方法としては危険すぎて不合理である。

引き揚げられたへりおすの検証の結果等により認められる諸状況によれば、電源切断時のへりおすの船首方向は概ね南であったものと考えられ、また、へりおすは沈没前に転覆していないものと考えるのが合理的である。

2 争点二について

(一) 本件遭難の原因は、荒天下における開口部の閉鎖不十分により、へりおすの開口部から海水が侵入したことにある。へりおすは転覆して沈没したものではないから、その復原性は本件遭難とは無関係である。

(二) 原告らは、へりおすが、建造中の仕様変更により基本設計時に想定されていたよりも復原性の不十分な船として建造されたうえ、その安全性が確かめられないまま初航海に赴いた旨主張するところ、右(一)のとおり、へりおすの復原性は本件遭難と無関係であるが、その点は措くとしても、以下のとおり、原告らの右主張は誤りである。

(1) 船舶の建造に当たっては、船価の制約等もあって、ある程度の設計、仕様の変更があることはむしろ通常のことである。被告は、へりおすの建造に当たって、当初計画(東京設計研究所の基本設計)に誤りがあるなどのやむをえない理由により、駿河精機との打合せのうえ仕様変更をしたものであるが、被告には船舶建造者としての知識と経験があり、復原性の点についても十分に検討したうえで、右仕様変更をしたものである。

また、被告は、へりおすにつき復原性試験を実施するに当たり、運輸省の指導に従った書式を用いて計算をし、復原性に関する各数値を算出して、問題がないとの結果を得た。原告らの主張するへりおすに係るC係数及び復原梃子の数値は、運輸省の採用するものとは異なる立場、見解に従って導かれたものである。

(2) へりおすの基本設計は、東京設計研究所が行ったものであるところ、復原性能はほぼその基本設計段階において決定されているものである。被告は、駿河精機から交付された東京設計研究所作成の図面や仕様書に基づいてへりおすを建造したものであり、その重心が東京設計研究所の推定値と異なるものとなったのは、当初の推定値が誤っていたからにほかならない。そして、重心の推定値が誤っている以上、基本設計段階で想定された復原性も誤ったものとなるから、被告が現実に建造したへりおすの復原性に関する数値が基本設計時の想定値と異なるのも当然であり、これを被告の責任とする原告らの主張は失当である。

なお、原告らは、建造時の仕様変更だけが原因で基本設計段階との差異が生じたかのように主張するが、そのようなことを認めることのできる資料は全くない。

(3) へりおすは、復原性試験も実施し、駿河湾において約一か月間余にわたり航海訓練も実施しているものであり、安全性については十分な確認がなされているものである。仮に、へりおすの復原性に何らかの問題があるならば、その間に乗組員からそのような訴えがなされるはずであるが、そのような事実はなかった。

また、へりおすが本件遭難の直前まで海上強風警報の出ている海上を何の問題もなく航海していたという事実からしても、へりおすの安全性に問題のないことは明らかである。

(三) へりおすは、船舶復原性規則の適用がなく、しかも、軽荷重量約一〇〇トンの小型船舶であるから、復原性の点においても、大型船とは異なり、小型船としての限界があることは当然である(それ故、船舶の規模性能に応じて航行区域が定められているのであり、本件でも、仮にへりおすが荒天下に航行区域外を航行するようなことをしていなければ、いち早く安全なところまで避難でき、本件遭難は発生しなかったとも考えられる。)

原告らは、へりおすの復原性が不十分であったと主張するが、そうであれば、被告に対し不法行為責任があるとする以上、船舶復原性規則という法的基準の適用もないへりおすの復原性の基準は何であるのか、換言すれば、へりおすが本来有していなければならない復原性とはどのようなものであるのかという点と、かかる復原性を有していたとすれば、へりおすは本件遭難に至らなかったという点についても主張立証しなければならないはずであるが、本件においてかかる主張立証は全く存在しない。

第三  争点に対する判断

一  争点一について

1 本件遭難当時の現場付近海域の気象、海象状況等

(一) 右第二の一の4及び5の各事実に《証拠略》を総合すると次の事実が認められる。

(1) 仙台管区気象台発表の海上強風警報等について

ア 仙台管区気象台が担当する海上予報区の範囲は、尻屋崎(青森県)から一一〇度に引いた線以南及び福島県と茨城県との県境から九〇度に引いた線以北の、海岸線から三〇〇海里の海域であり、本件遭難現場を含む海域は右担当範囲に含まれる。

イ 仙台管区気象台は、本件遭難発生当日である昭和六一年六月一七日の午前六時に、「発達した低気圧が、北緯三八度東経一三〇度付近を北東進中で、三陸沖では南寄りの風が次第に強まり、最大風速二〇メートル、ところにより濃霧のため見通しが悪く、最小規程〇・二海里、またはそれ以下の見込み、船舶は十分注意して下さい。」として、三陸沖地方海上警報として海上強風警報及び海上濃霧警報を発表し、その後同日正午、午後六時及び午後一一時五〇分の三度にわたり、同じ警報を継続発表した。なお、海上強風警報は、気象庁風力階級表の風力階級八及び九(相当風速は秒速一七・二ないし二四・五メートル、おおよその波高五・五ないし七メートル)の場合に発表されるものであり、海上濃霧警報は、濃霧について警告を必要とする場合に発表されるものである。

ウ 仙台管区気象台は、昭和六一年六月一七日の北緯三七度四四分東経一四一度三八分付近海上の気象、海象状況を次のとおりと推測している(なお、右第二の一の4の(一)の(3)のとおり、へりおすが沈没したのは同日午後五時三八分頃、北緯三七度四四・七分東経一四一度三八・五分付近海域においてである。)。

a 同日午前九時

天気・雨、風向・南南東ないし南南西、風速・二〇ノット、風浪の方向・南南東ないし南南西、同周期・四ないし五秒、同・波高約一メートル、うねりの方向・南東ないし南、同周期・七ないし八秒、同波高・約二メートル、合成波高・二メートル前後

b 同日午後三時

天気・雨、風向・南南東ないし南南西、風速・二五ノット、風浪の方向・南南東ないし南南西、同周期・五ないし六秒、同波高・一ないし二メートル、うねりの方向・南東ないし南、同周期・七ないし八秒、同波高・約二メートル、合成波高・二ないし三メートル

c 同日午後九時

天気・雨または曇り、風向、南南東ないし南南西、風速・二〇ないし二五ノット、風浪の方向・南南東ないし南南西、同周期・六ないし七秒、同波高・二ないし三メートル、うねりの方向・南東ないし南、同周期・七ないし八秒、同波高・約二メートル、合成波高・三メートル前後

エ なお、気象庁の発刊する「気象要覧」(一九八六年六月版・一〇四二号)掲載の「日本近海の海上気象」と題する記事中に、昭和六一年六月中の本件遭難を含む気象の関連した海難事故八例が、その当時の気象等とともに紹介されているが、これによれば、本件遭難当時の気象については、雨、南東の風、風力六、風浪四、うねり南東三、視程五とされている。

(2) 本件遭難当時現場付近海域を航行した船舶の観測

ア 第一日星丸

右第二の一の4の(一)の(2)のとおり、第一日星丸は、昭和六一年六月一七日午後二時三二分頃、北緯三七度一六・三分東経一四一度三〇・八分付近においてへりおすと航過して南下したものであるが、同船舶長は海難審判庁理事官に対し、その当時、風力は五ないし六、風向は南より南西、金華山をかわってから海象は悪化し、夕方さらに悪化した旨供述しており、また、同船の航海日誌には、午後三時及び午後四時頃の海象として、「海上全面白波、視界二ないし三海里」と、午後八時頃の海象として、「風向南、和風、海上全部白波」と記載されていた(和風とは風力階級四のことで、海上は波の小さなもので長くなり、白波がかなり多くなるとされる。但し、海上全部白波との状況記載に照らすと、これは風力階級六に相当する「雄風」の誤記と考えられる。)。

イ 神正丸

右第二の一の4の(一)の(2)のとおり、神正丸は、同日午後二時五八分頃、北緯三七度二〇・三分東経一四一度三二分(塩屋埼灯台から五二度、三三・七海里)付近においてへりおすと航過して南下したものであるが、同船二等航海士は、仙台地方海難審判庁において、その頃の海象につき、天候雨、南南東の風、風力六、うねり階級五で機関回転数を上げても速力は低下する状況であった旨を供述し、また、同船の航海日誌には、午後四時頃の記載として「風力Near Gale(相当風力六ないし七)、風浪階級very rough(波がかなり高く、四ないし六メートルの範囲)」、午後八時頃の記載として、「同上」とあった。

ウ 第十一観音丸

第十一観音丸は、昭和六一年六月一七日、金華山東方沖で操業していた漁船であるが、その船長は海難審判庁理事官に対し、同日出漁し、金華山沖水深一六〇メートルのところで操業中、かなりの時化模様で南東の風、風速毎秒一〇ないし一五メートル、波高四~五メートル程度であった旨、また、金華山東方は操業できなくはなかったが、時化が激しくなったので午後五時頃操業を中止して引き上げた旨供述した。

(二) 右(一)の各事実に、右第二の一の4の(一)の(1)及び(2)のへりおすから日本浅海又は小長谷に対する連絡内容、並びに後記のとおりへりおすがちちゅうにより荒天を回避しようとしたこととを併せ考えると、本件遭難当時の現場付近海域の気象、海象状況は、天候雨、風向南南東ないし南南西、風浪の方向南南東ないし南南西、うねりの方向南東ないし南、風力五ないし六、風浪及びうねりの各波高は二ないし三メートルの相当程度の時化模様にあったものと推認するのが相当である。

2 引き揚げられたへりおすの船体各部の状況について

《証拠略》によれば、右第二の一の4の(二)のとおり、海底から引き揚げられたへりおすの船体各部の状況並びにこれに関連する事項につき、次のとおり認められる。

(一) 船体開口部等の状況等

(1) 船首ボースンストアハッチの四本の蝶番クランプボルトが完全に緩められ、マンホールカバーが開放されたままの状態になっていた。

なお、ボースンストア内には救命胴衣が格納されていた。また、ハッチの閉鎖は一等航海士により出航確認事項の一つであり、へりおすが出航した段階ではボースンストアハッチは閉鎖されていたものと考えられる。

(2) 操舵室右舷側出入口の木製扉が開放され、バックフックが掛けられた状態で固定されていた。他方、左舷側は完全に閉められた状態であった。

なお、一般に、荒天航行中でも暑さなどにより通風換気が必要な場合などには、操舵室出入口扉の風下側を開けて固定しておくことはあり得ることである。

(3) 機関室天窓の左舷側一箇所がフック掛けの状態で開放されていた。

(4) 後部上甲板上の左舷側機関室ファンルーム頂部及び側部の吸排気口が開口し、側部の開口部の水密扉がバックフックで固定されて半開きの状態で開口していた。

(5) 機関室前部出入口扉が開けられていた。

(6) 中央倉庫左舷側壁の出入口水密扉がバックフックが掛けられずに開けられており、他方船員室後部右舷側出入口水密扉は、内部のクランプレバー(クリップ)は全て開放されていたが、外部より南京錠で施錠され閉鎖されていた。

右各水密扉は、荒天航行中は、閉鎖したうえクランプレバー(クリップ)を十分締め付けておくのが常識であり、仮に、海象状況がそれほど悪化しておらず、風下側を開けておける状況でも、開けておくからにはバックフックを掛けて固定し、扉の動きを押さえておくものである。

(7) 左舷側浴室の舷窓が開放された状態であった。

(二) 電源ないし電気系統について

(1) へりおすには、機関室に補機駆動の発動機(二二五V 五〇KVA)が主機を挟んで右舷側と左舷側に各一基ずつ備え付けられており、これからAC(交流)二二〇ボルトとAC一〇〇ボルトの電気が供給され、また、上甲板上バッテリー室に四個、機関室に六個(主機、補機スタート用)、アッパーブリッジ上に四個のバッテリーがそれぞれ備え付けられ、右各バッテリーからDC(直流)二四ボルトの電気が供給されていた。

なお、本件遭難時には、左舷側の発電機を作動させていた。

(2) また、へりおすには、船舶の操作等に必要な電源を供給し、あるいは遮断する集合分電盤(制御盤)として、<1>主配電盤、<2>主機警報盤(機関室警報盤)、<3>蓄電池充放電盤、<4>操舵室集合分電盤、<5>機関室照明分電盤、<6>調査室照明分電盤、<7>陸上受電盤の合計七基があったが、小型船であるので主要な操作は操舵室で行われ、したがって、主要な操作に係る機器電源を直接供給し、あるいは遮断するのは操舵室内の操舵室集合分電盤であった。

なお、主配電盤は、機関室の船首側隔壁から約〇・六メートル隔てたところに設置され、その外寸は、幅約二・九メートル、奥行〇・五メートル、高さ約一・六メートルであり、主配電盤のほぼ真上に機関室天窓が、主配電盤と隔壁の間の左舷側に中央倉庫に通じる垂直梯子が設置されていた。また、主機警報盤は、後部左舷側機関室ファンルームの下方に設置されていた。

(3) へりおすの各制御盤のスイッチの主なものは、<1> 回路開閉器(SS、二極型、機械式スナップスイッチ(ON、OFFのみ))、<2> 回路開閉器(SS、三極型、機械式スナップスイッチ(ON、OFF、NEUTRAL))、<3>配線用遮断機(NF、ノンヒューズブレーカー)、<4>電磁開閉器(MC、マグネットコンタクター)の四種類であった。

このうち、<1>と<2>の回路開閉器(以下「SSスイッチ」という。)は、ONの状態で電源が断たれ、あるいは短絡してもそのままの状態を保つものであり、<3>の配線用遮断機(以下「NFスイッチ」という。)は、ONの状態で電源が断たれた場合にはそのままの状態を保つが、それ自体ないし負荷側で短絡すれば、ONの状態からOFFの状態に切り換わるものであり、<4>の電磁開閉器は電源が断たれれば、ONの状態からOFFの状態に切り換わるものである。

(4) 操舵室集合分電盤のスイッチの状況について

ア へりおすの操舵室集合分電盤には、マスト灯等DC二四ボルト系のSSスイッチが一一、探照灯等AC二二〇ボルト系のNFスイッチが五、航行指示灯等AC一〇〇ボルト系のNFスイッチが一四、船舶電話等DC二四ボルト系のNFスイッチが一一あった。

イ このうち、DC二四ボルト系のSSスイッチについては、航行不能灯、白灯、曳航灯のスイッチ及びW/H後部照明のスイッチがONの状態であり、常用灯であるマスト灯、右舷灯、左舷灯、船尾灯、碇泊灯のスイッチはOFFの状態であった。

ウ AC一〇〇ボルト系のNFスイッチについては、通常航海時に必要な、船内指令、操舵・ジャイロ、磁気コンパス、風向・風速窓、エア・インタホンの各スイッチがONの状態であった。

エ AC二二〇ボルト系のNFスイッチについては、探照灯、レセップの各スイッチがONの状態であった。

オ DC二四ボルト系のNFスイッチはすべてOFFの状態であった。これには、船舶電話、船内電話、操舵装置、舵角受信器、エンジンテレグラフ、磁気コンパスといった操船上必要な機器に対する給電スイッチが含まれている。

(5) 主配電盤及び主機警報盤のスイッチの状況について

主配電盤の主機警報盤に給電しているNFスイッチがONの状態であり、主機警報盤のDC二四ボルト系NFスイッチがOFFの状態で短絡していた。

(三) 主機遠隔操縦スタンド(リモコン操作)のハンドル、クラッチについて

へりおすの主機遠隔操縦スタンドのハンドルのうち、ガバナハンドルは、手前に一杯に引かれ、デッドスロー(最低回転)の状態であり、クラッチハンドルは一杯に押し込まれ、嵌(前進)の位置に、CPP翼角計指針は、前進約二〇度の位置にあった。

(四) 操舵機について

操舵室パイロットスイッチパネルの操舵方式を切り替える切替スイッチが、ダイヤルモードの位置に、手動油圧クラッチの切替レバーが手動油圧「入」の位置にあった。

へりおすの操舵方式は、通常の状態においては、<1>ジャイロコンパスによる自動操舵、<2>リモコン操作盤を主コンソールに接続して行うリモコン操舵、<3>コンソール上面の操舵用ダイヤルを使用するダイヤル操舵、<4>コンソール前面の舵輪を使用する舵輪操舵の四種類があり、いずれも電動油圧によるものである。このほか、何らかの理由で電源を喪失した場合に、舵輪に内蔵されたパイロット手動ポンプの働きによって、<5>応急手動油圧操舵(マロール式手動油圧)を行うことができる。しかし、この場合には、舵輪の負荷は重くなり、円滑な操舵が困難となることは免れない。

へりおすは、パイロットスイッチパネルの切替スイッチがダイヤルモードであったり、手動油圧切替スイッチが手動油圧「入」の位置であったりしても、操舵機にオービットロール装置が組み込まれているので、舵輪を捜作することにより電動油圧の状態で操船することができる。この場合、主配電盤から給電される舵輪の作動に必要なAC一〇〇ボルトの電源が断たれれば、自動的に手動油圧に切り換わることになる。

(五) 針路表示関係について

(1) コーシンベーンの風向指示機の示度が船首右舷約五度となっていた。

右風向指示機はセルシンモーター型で、AC一〇〇ボルト系電源が断たれると、その断たれた時点における風上に対する船の針路を指示して止る機構であり、右の示度は外力の作用によって動かされた後のものではなく、概ねAC一〇〇ボルト系電源遮断時における、風上に対するへりおすの針路を示すものと考えられる。

(2) 操舵スタンドの自動操舵用針路設定器の示度は三四〇度であったが、右針路設定器の針路設定ノブが飛んで紛失しており、ガラスカバーは破損していた。

針路設定器は、針路設定ノブを押し下げると、同ノブに固定された直径約六ミリメートルの金属性シャフトにより、上部クラッチが指針デスクを圧着し、同時にダブルスプリングにより下部マグネットバーデスクが離れてフリーとなり、指針を目的コースにセットして離せば再びマグネットバーデスクが圧着され、レピーターカードが指針に追従する機構となっていた。したがって針路設定ノブを自動復帰させる上部スプリングを支えているガラスカバーが割れるとか、針路設定ノブが飛ぶ程の外力がかかった場合、上部クラッチが指針デスクに圧着され、指針が動く可能性がある。

(3) 操舵用ジャイロコンパス(レピータコンパス)の示度は二一八度であったが、そのガラスカバーは破損していた。

右コンパスはAC一〇〇ボルト系電源が切れると直ちに停止する機構であり、かつ歯車を介して回るので停止後、それほど動くことはない。なお、右コンパスの機構上、ガラスバーを破損させた外力によってその示度が変るとは考え難い。

(4) ジャイロコンパス(マスターコンパス)の示度は一四五度であり、また右コンパスの収納ボックスには外部よりの損傷はなかった。

右コンパスのローターは、電源が切れても暫らくは急速回転を続け、すぐには停止せず、電源が切れた直後回転軸に直角な成分を持つ外力が作用すると回転軸のベクトルと外力のベクトルとの合成方向に回転軸が偏向する性質を有する。

被告が本件遭難後に行った実験によると、電源が遮断された場合にジャイロのローターが静止するまでの所要時間は二〇ないし三〇秒で、その間へりおす程度の小型船の場合、船体が回頭を続けたとして、傾斜が通常の復原限界角以内程度であるならば、示度のずれは最大で三〇ないし四〇度程度であるとの結果が得られた。

(5) へりおすの舵はほぼ中央の状態にあった。

(六) その他の状況

(1) 機関室内の敷板がすべて右舷側に移動し、右舷側膨張式救命筏がコンパス甲板上のマストの左舵側ヤードに絡んでおり左舷側の筏はレリーズし漂流後に発見された。

(2) 錨鎖庫内のチェーンは整然と格納されていた。

なお、へりおすの場合、錨鎖庫内にチェーンを格納する際には乗組員の手作業により、チェーンがキンクせぬように並べなければならない構造となっていた。

(3) 操舵室、食堂、居住区内の各室天井パネル(四ミリメートル耐水合板)には、ほとんど損傷が認められない。また、機関室内通路上部には、一三個の四〇ワット(二〇ワット二灯式)蛍光灯が設備され、直径約二ミリメートルの針金によるランプガードネットが設けられているが、そのうち、最前部及び後部の二灯のガードに僅かな損傷が見られたのみであった。

(4) 船尾差し板(改造ブルワーク・パイプ構造にキャンバスを張ったもの)は、そのまま残存し、付近甲板上にコイル状のロープ類が残っていた。

(5) 乗組員九名中発見された七名の遺体は、いずれも救命胴衣を着用していなかった。

(6) 船舶電話の受話器が外れていた。

この装置は自動固縛式で、人為的な力又は相当な外力が働かない限り、単なる動揺や振動のみでは容易に外れるものではない。

(7) 操舵室内の昇降口後部に設置された遭難信号自動発信器(SOS自動発信器)は、取付金具からはずされて、紛失していた。

右遭難信号自動発信器は取付金具に緊縛された状態にあって、人為的に操作しない限り、これが取付金具から外れることはないと考えられる。

3 右1及び2の各認定事実並びに以下に掲記する証拠によれば、さらに次の各事実が認められ、あるいは推認される。

(一)(1) 右2の(二)の(4)のとおり、操舵室集合分電盤のDC二四ボルト系SSスイッチのうち、航行不能灯、曳航灯のスイッチがONの状態であったことによれば、へりおすが、転覆ないし沈没のような直ちに退船が必要とされる事態にまでは至っていないが、その航行に支障を来す何らかの異常事態に遭遇していたこと、また、その時点においてDC二四ボルト系電源の給電が継続していたことを推認することができる。

(2) 右2の(二)の(5)のとおり、主配電盤の主機警報盤に給電しているNFスイッチがONの状態であり、主機警報盤のNFスイッチがOFFの状態で短絡していたことに照らすと、主配電盤から主機警報盤に対する給電が断たれるより先に主機警報盤が短絡したこと、及び右短絡の結果、操舵室において主機を遠隔操作することができなくなり、主機運転が不能となったことが推認できる。そして、この事実と、右2の(三)のとおり、へりおすの主機遠隔操縦スタンドのハンドルのうち、ガバナハンドルが手前一杯に引かれ、最低回転の状態であったこと、並びに弁論の全趣旨を総合すると、へりおすの操船者は、主機の遠隔操作ができなくなった時に、主機を保護しようとする咄嗟の動作でガバナハンドルを手前に引いたものと推認される。

(3) 右2の(二)の(4)のとおり、操舵室集合分電盤の各スイッチのうち、DC二四ボルト系NFスイッチはすべてOFFの状態であり、AC一〇〇ボルト系NFスイッチ及びAC二二〇ボルト系NFスイッチにはONの状態であったものもあることに鑑みれば、DC二四ボルト系NFスイッチは電源が断たれるより先に負荷側で短絡したのに対し、AC一〇〇ボルト系及びAC二二〇ボルト系のNFスイッチは、負荷側で短絡が生ずるより先に電源が断たれたことが推認される。そして、この事実によれば、さらに、操舵室集合分電盤に供給されていたAC一〇〇ボルト系及びAC二二〇ボルト系の電気が電源側で断たれた(それが、主配電盤が短絡したことによるものか、それとも発電機自体が停止したことによるものかは、証拠上必ずしも明らかではない。)時点においても、DC二四ボルト系の給電は継続されていたことを推認でき、右2の(二)の(1)のDC二四ボルトの電気を供給するバッテリーの所在位置を併せ考えると、操舵室集合分電盤のDC二四ボルト系NFスイッチの負荷側短絡は、へりおすが沈没した際に生じたものと推認することができる。

(4) 右(1)ないし(3)の各事実と右2の(四)のへりおすの操舵機構を総合考慮すると、右(1)のへりおすに生じた航行に支障を来す異常事態とは、まず主機警報盤が短絡して主機運転が不能となったうえ、それに続いて、主配電盤の短絡又は発電機そのものの停止により、AC一〇〇ボルト系及びAC二二〇ボルト系の電源が断たれて電動油圧による操舵が不可能となり、舵輪の重い応急手動油圧操舵に切り替わって、操船が極めて困難な状況に立ち至ったという事態であるものと推認される。

しかして、右(2)及び(3)のとおり、へりおすの電気系統の異常は、主機警報盤の短絡、主配電盤の短絡又は発電機自体の停止(AC一〇〇ボルト系及び二二〇ボルト系電源の遮断)、DC二四ボルト系機器(操舵室集合分電盤のDC二四ボルト系NFスイッチからみて負荷側)の短絡の順に生じたものと認められ、このうちDC二四ボルト系機器の短絡は、へりおすが沈没した際に生じたものであるとしても、主機警報盤の短絡並びに主配電盤の短絡又は発電機自体の停止とDC二四ボルト系機器の短絡との間には多少なりとも時間があり、その間に乗組員が航行不能灯等を点灯したり、後記認定のとおり、船首ボースンストア内に格納されていた救命胴衣を取り出そうとしてボースンストアハッチを開放するなどの行動をしたものと認められるから、主機警報盤の短絡並びに主配電盤の短絡又は発電機の停止がへりおすの沈没自体によって生じたものとは認め難い。

そして、このことと、右1の(二)の本件遭難当時の現場付近海域の気象、海象状況、右2の(一)の船体各開口部の存在、右2の(二)の(1)の左舷側発電機の所在場所、右2の(二)の(2)の主機警報盤と左舷側の機関室ファンルームとの位置関係並びに主配電盤と機関室天窓との位置関係等を総合すると、左舷側の機関室ファンルーム頂部及び同側部の吸排気口ないし同側部の開口部から、海水が機関室内に打ち込んだことにより、主機警報盤の短絡が生じ、さらに機関室天窓からも海水が打ち込んで、主配電盤を短絡させたか、あるいは右いずれかの海水の打ち込みによって当時作動していた左舷側発電機が停止したものと推認するのが相当である。

なお、原告らは、へりおすが本件遭難時に針路三四〇度で追波航行をしていたことを前提として、当時の気象、海象状況と機関室天窓の位置などからして、機関室天窓から海水が打ち込むことなどあり得ないと主張するが、右前提事実を認めることのできないことは後記のとおりであり、また、右1の(二)の本件遭難当時の現場付近海域の気象、海象状況や機関室天窓の位置(《証拠略》によれば、甲板上一メートル余りの高さにあることが認められる。)からして、卓越波が襲来した場合においても機関室天窓から海水が打ち込むことがあり得ないとはいえないから、右の原告らの主張は失当である。

(二)(1) 《証拠略》によれば、荒天の際の操舵上の一般的注意として、小舵角で小刻みに操舵を行うのが原則であり、保針の操舵は、船首の動きに細心の注意を払い、大舵角の当て舵をとってはならず、また、変針は船の動揺と海面状態をよく観察して、最も状態の良い時機を選んで小舵角で小刻みに行うことが必要であることが認められるほか、一般に荒天に対処する操船方法として、次のようなものがあることが認められる。

<1> ちちゅう(ヒーブツー)

船首を風浪に立て、舵効を保持できる最小の速力をもって前進する方法である。一般に船首より二~三点の方向から波浪を受けるようにする。利点としては、波浪に対する姿勢を保持しやすく、風浪下側への漂流がないことが挙げられ、欠点としては、波に向かうので、波による船首への衝撃を完全に避けることができず、また船首への海水打込みを防ぐには不十分であることが挙げられる。

<2> 順走(スカッディング)

波浪を斜め船尾方向に受けながら、波に追われるように航走する方法である。利点としては、船の受ける波の衝撃力が最も小さく、相当の速力を保持してもよいので、積極的に荒天海面、特に台風の中心から脱出するような場合に好都合であることが挙げられ、欠点としては、ブローチングがプープダウンを起こしやすく、保針性も悪いことが挙げられる。

<3> ひょうちゅう(ライツー)

機関を停止して船を風浪下にそのまま漂流させ、波に逆らわないようにする方法である。低速では波に向首できなかったり、追波中での保針性の悪い船で採用する。船は風浪を正横ないしわずか正横後の方向に受けてビームシーの状態となるから、十分な復原力を持たなければ横不安定となって危険である。利点としては、船体にあたる波の衝撃力を大幅に減じることができ、海水の打込みも比較的少なく、また舵による保針を必要としないことが挙げられ、欠点としては、船体の漂流量が大きいので風下側に十分な余裕水域を必要とし、またビームシーとなって横揺れが激しくなると積荷の移動の誘発及び自由水の移動によって復原力の損失を招くことが挙げられる。

(2)ア 右2の(五)の(1)のとおり、へりおすのコーシンベーン風向指示機の示度や船首右舷約五度となっていたこと、右の示度は、概ねAC一〇〇ボルト系電源遮断時における風上に対するへりおすの針路を示すものと考えられること、右(一)のとおり、へりおすのAC一〇〇ボルト系電源は遮断されたこと、右1の(二)のとおり、本件遭難当時の現場付近海域の風向は南南東ないし南南西であったことを併せ考えると、AC一〇〇ボルト系電源の遮断時(すなわち主配電盤の短絡又は発電機自体の停止が生じた時)において、へりおすはその船首を概ね風上の南方向に向けていたものと推認される。

イ 右2の(五)の(3)及び(4)のとおり、へりおすの操舵用ジャイロコンパス(レピータコンパス)の示度は二一八度(概ね南西方向)であり、また、ジャイロコンパス(マスターコンパス)の示度は一四五度(概ね南東方向)であったから、右各コンパスの示度が信用できるものとすれば、この事実からもへりおすが船首を概ね南方向に向けていた事実を推認することができるものといえる。そして、この点に関しては、右2の(五)の(3)のとおり、レピータコンパスはAC一〇〇ボルト系電源が切れると直ちに停止する機構であり、かつ歯車を介して回るので停止後、それほど動くことはないし、その機構上、ガラスカバーを破損させた外力によって示度が変るとは考え難いこと、また、同(4)のとおり、マスターコンパスのローターは、電源が遮断されても暫らくは急速回転を続けてすぐには停止しないが、被告の実験によると、電源が遮断された場合にジャイロのローターが静止するまでの所要時間は二〇ないし三〇秒で、その間へりおす程度の小型船が回頭を続けたときの示度のずれが最大で三〇ないし四〇度程度であること(したがって、その示度に照らして一〇五度から一八五度の範囲であること)が認められる。

しかしながら、右2の(五)の(4)のとおり、被告のマスターコンパスに関する右実験結果も、傾斜が通常の復原限界角以内程度である場合のものであることが認められるところ、このことと弁論の全趣旨とを併せ考えると、ジャイロコンパスはジンバル装置(水平保持器)に支えられており、同装置の許容角度を超えて船体が傾斜するとジャイロの水平が保てず、指北作用を失って予想できない方向に運動することが認められ、他方、レピータコンパス及びマスターコンパスに未だ給電されている時期にへりおすが右許容角度を超えて傾斜しなかったとまで断定し得る証拠もない。

そうすると、結局、レピータコンパス及びマスターコンパスの示度は、それ自体からへりおすの船首が概ね南方向を向いていたことを認定するには足りないものといわなければならないが、仮にへりおすに右のような傾斜がなかったとすれば、へりおすの船首が概ね南方向を向いていたことを示すものとして、右アの認定事実を裏付けるものということはでき、その限度で考慮すべきものというべきである。

(3) 右の各認定事実及び右1の(二)の認定事実によれば、AC一〇〇ボルト系電源の遮断時(すなわち主配電盤の短絡又は発電機自体の停止が生じた時)において、へりおすの操船者は、船首を概ね南方向に向けて、風浪に対し船首を立て、ないし立てようとしていたものと認められる。そして、この事実に、右(1)の認定事実、右第二の一の4の(一)の事実、並びに同3の(二)のとおり、本件事故当日である昭和六一年六月一七日以降同年七月三日まで、へりおすの運航日程が詳細に定められており、余裕がなかったこと、同3の(一)のとおり、へりおすが船首方からの風波に対しては凌波性が高かったこと等を併せ考えると、松本船長は、荒天を回避するための方法としてちちゅうによろうとし、概ね北向きの針路を南向きとするため左舷側に回頭する操船をしたものと認めるのが相当である。

(4) 原告らは、へりおすは、本件遭難直前の昭和六一年六月一七日午後五時三二分ないし三三分頃、石巻港に避難すべくそれまでの針路一六度(実航針路一三度)から針路三四〇度に転針したと主張する。そして、松本船長から小長谷に対し同日午後五時一〇分頃に「現在風力五、これ以上天候が悪くなれば最寄りの港へ避難するつもりである」との臨時連絡があり、小長谷からなるべく避難するようにとの助言を受けたことは、右第二の一の4の(一)の(2)のとおりであり、また、引き揚げられたへりおすの操舵スタンドの自動操舵用針路設定器の示度が三四〇度であったことは右2の(五)の(2)のとおりである。

しかしながら、右の臨時連絡の後、松本船長ないしへりおす側と小長谷ないし日本浅海との間に、避難を開始した旨の連絡はもとより、どのような内容であれ連絡がなされたとの主張立証はなく、仮にへりおすが荒天避難のため石巻港へ向かって転針したのであれば、このことはいささか不自然であるといわなければならない。のみならず、乙第三、第一四号証によれば、へりおすの船舶職員四名については、松本船長が三級海技士(航海)の海技免状を持ち、遠洋鮪漁船の船長として約一〇年の乗船経歴を有しており、樋口勝年一等航海士も三級海技士(航海)の海技免状を持ち、船長としての乗船経歴を有し、佐々木豊蔵機関長が四級海技士(機関)の、藤井正文機関士が三級海技士(機関)の海技免状をそれぞれ持って航海経験を有していることが認められるから、いずれの船舶職員についてもそれなりに荒天の経験を有するものと推認され、右1の(二)で認定した程度の荒天下において、右の臨時連絡の内容にかかわらず、最寄りの港への避難をしないでちちゅうによって対処しようとすることがあり得ないものとは考えられない。

また、三四〇度を示していた操舵スタンドの自動操舵用針路設定器は、その針路設定ノブが飛んで紛失しており、そのガラスカバーが破損していたこと、右針路設定器は、ガラスカバーが割れるとか、針路設定ノブが飛ぶ程の外力がかかった場合、上部クラッチが指針デスクに圧着され、指針が動く可能性があることも右2の(五)の(2)のとおりであって、右針路設定器が三四〇度の示度であったからといって、その数値が必ずしも信用できるものとはいい難く、したがって、右事実も、へりおすが本件遭難直前に三四〇度の針路を取っていたことを認めるには足りない。

なお、原告らは、へりおすが三四〇度に転針したため、左舷後方から波浪が打ち込み始めたとする高等海難審判庁の裁決の認定に対し、三四〇度に転針したことにより波浪が打ち込み始めたのであれば、これをなくするためには、三六度右転して元の針路である一六度に一旦戻せば足り、南からの横波を受けることになる二七〇度を経て二一八度(レピータコンパスの示度)にまで回頭することは考えられないとして、これを非難するが、へりおすが南に回頭したのは、波浪の打ち込みを避けるためのものではなく、船首を風浪に立てようとしたからであり(乙第一四号証によれば、この点は高等海難審判庁の裁決における認定も同様であることが認められる。)、原告らの右の非難はその前提を欠くものといわざるを得ない。

4 右1ないし3の各認定事実に、弁論の全趣旨を併せ考えると、本件遭難時の具体的状況については、次のとおりであったものと認めるのが合理的である。

(一) 松本船長は、本件遭難直前に、ちちゅうによって荒天に対処しようとの目的で、それまでの針路を概ね北に取っていたへりおすを左舷側に回頭する操船をし、その船首を概ね南側に向けたが、その回頭の途中ないしは回頭後に卓越した波浪が襲来し、海水が、開口していた後部上甲板上左舵側の機関室ファンルーム頂部及び同側部の吸排気口ないし同側部の開口部並びに機関室天窓から機関室内に打ち込み、まず、機関室ファンルームの開口部から打ち込んだ海水が主機警報盤を短絡させたことにより主機運転が不可能となり、引き続いて機関室天窓から打ち込んだ海水が主配電盤を短絡させたか、あるいは右いずれかの海水の打ち込みによって当時作動していた左舷側発電機が停止し、AC一〇〇ボルト系及びAC二二〇ボルト系の電源が遮断されたために、電動油圧による操舵が不可能となり、舵輪の重い応急手動油圧操舵に切り替わって、操船が極めて困難な状況に立ち至った。

(二) へりおすの乗組員はこの段階で切迫した危険を感じ、一方で、緊急事態を外部に伝えるため、操舵室集合分電盤の航行不能灯等のスイッチを入れ、船舶電話の受話器を取り外し、あるいは遭難信号自動発信器を取付金具から取り外したりし、他方では、救命胴衣を格納場所の船首ボースンストア内から取り出すため、四本の蝶番クランプボルトを緩めてボースンストアハッチを開口し、あるいは船内から脱出するために中央倉庫左舷側壁の出入口水密扉を開放した(右舷側出入口水密扉も開こうとしてクランプレバー(クリップ)を開放したが、外部より南京錠で施錠されていて開放しなかった。)

(三) その間にも、船内への海水の打ち込みは続き、従来からの開口部のみならず、脱出等のため新たに開放したボースンストアハッチや中央倉庫左舷側壁の出入口水密扉からも海水が船内に流れ込み、操船の著しい困難もあって船体は右舷側に傾斜した後(それがどの程度の傾斜であったかは確定し得ない。)、そのまま沈没した。

(四) 乗組員が切迫した危険を感じてから沈没するまでの時間は、結局、救命胴衣を装着し得た乗組員は一人もいなかったこと、また、少なくとも四名の乗組員は船内から脱出し得なかったことから推して、ごく短時間であったが、乗組員が右(二)の各行動を取るに要する程度は存在した。

二  争点二について

本件遭難の具体的状況は、右一の4のとおりであると認められ、そうすると、その状況は、原告らが主張するような、へりおすが南からの風及び風浪を左舷船尾約一四度方向から受けて追波航行中、その状態で高波により上甲板への波のすくい上げを受けた際、急速に復原力を喪失して右舷に横転し沈没したというものとは、およそ異なるものであるということになる。

したがって、本件遭難の具体的状況がその主張に係るようなものであることを前提として、へりおすが、その建造中の仕様変更の集積によって完成時の重心位置に影響を受け、基本設計時に想定されていたよりも復原性の不十分な船として建造されたうえ、その安全性が確かめられないまま初航海に赴いたために、左斜め後方からのやや強い風波を受け、追波中の航行と上甲板への波のすくい上げにより急速に復原力を喪失したことが本件遭難の原因であるとする原告らの主張は、その前提を欠くという点において既に失当であり、これを採用することはできない。

また、右一で認定した本件遭難の状況に鑑みて、原告らの右主張に係るほか、へりおすの復原性が不十分であって、そのことが本件遭難に寄与したというような事情も特に認められない。

三  そうすると、その余の点につき判断するまでもなく、原告らの本件請求は理由がない。

(裁判長裁判官 荒川 昂 裁判官 石原直樹 裁判官 小林直樹)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例